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「金融資本主義とアディクション」
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この人が王であるのは、他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからにすぎないのに、人々は逆に、この人が王だからこそ自分たちは臣下だと思い込んでしまう。
(『資本論 第1巻』カール・マルクス)
王は一人だけで王になることはできない。自身を「王」として扱う一定数の家来が存在してはじめて、彼は王になることができる。しかし、ひとたび彼が王となると、家来は自分たちが彼を王にしたとは思わなくなる。自身が家来であるゆえんは、「王によって自身が家来として認められたため」と考え、家来がいてこそ生まれた「王の権威」は、あたかも家来より先に存在していた超越的な存在として認知される。
この寓話を通してマルクスが資本論で伝えたかったことは何か。それは商品と貨幣の関係性であろう。元々は、商品同士を交換する「手段」であった貨幣が、時を経ることで、あたかも商品より先立つ超越的な存在として「価値」を帯びることとなる。
集団の関係性から生まれた、王や貨幣といった「機能」は実在化し、光り輝く存在として実体化していく。そこでは容易に原因と結果が逆転するだけでなく、手段と目的の入れ替わりも生じていく。
人間自身の行為は、彼らにとって疎遠な、彼に対立する力になり、この力は人間が支配するのではなくて、人間を服従させる――。
(『ドイツ・イデオロギー』カール・マルクス)
マルクスがこう述べた逆転のメカニズムは、まさしくアディクション(依存症)そのものである。
病的賭博を例にとる。
そもそも人は多かれ少なかれ「お金を増やす」ことを目的にギャンブルを開始する。そのため、もしも「お金」が目減りしたならば、自ずと対象への興味は失われていく。しかし、病的賭博ではそうはならない。彼らは、勝った際には「勝っているから」、負けた際には「取り返すため」と理由付けをし、永遠にお金を賭け続けてしまう。なぜなら、彼らがギャンブルをする目的は「お金を増やすため」ではなく、「お金を賭けるため」だからである。しかし、その転換について彼ら(=患者)が自覚することは不可能であるため、彼らの人生は間違いなく破滅の淵に追いやられてしまう。
アルコール依存症も同様である。当初は、ストレスを減らすために飲んでいたはずのお酒が、いつしか、お酒を飲めないことで強いストレスを感じるようになると、主従は逆転する。
近代の人々は、共産主義が衰退したその歴史から、民主主義を維持するには「資本主義が必要」と信じてきた。しかし、資本主義は成熟すると共に極めて恐ろしい敵と直面することにもなった。その敵の正体。それは、手段が目的化する資本主義の構造そのものであった。商品の交換を円滑にするための道具であった貨幣が自立すると、商品が貨幣を増殖させるための手段となる。そして、いつしか貨幣自体がデリバティブと呼ばれる投機対象となり、産業資本主義は金融資本主義へと形を変え、アディクトと化した。そこでは、地道に働いたなら一生得られないような資産を、金融商品を「動かす」だけでまたたくまに手に入れることが可能な状態も作り出した。そんな潮流は、経済社会自体をやがて巨大なカジノへと形を変えていった。
昨今、「何が優秀な働き方で、何が懸命な働き方なのか」、こうした労働概念そのものが破壊されたのも、民主主義を維持する手段であった資本主義が、貨幣価値の増減で民主主義をコントロールするようになった結果といえる。優秀とされる人材が、新たな価値やイノベーションの創造より、資産運用や時価総額の拡大ばかりにエネルギーを注いだなら、世の中全体が短期的報酬に振り回されていくことは自明だ。やがて、人々が個人の利益だけを最優先するようになったなら、そこで待ち受けているのは、社会的孤立と物や行為にアディクトせざる得ない、いわば「孤人」の大量発生である。
今回の鼎談は、資本主義の抱える社会構造の課題や資本主義社会のアディクト化について、私が尊敬してやまない苫米地英人先生と松本俊彦先生の両氏から教えを乞う場としていきたいと考えている。
参考文献
『アディクションと金融資本主義』鈴木直
『ホモ・デウス:ユヴァル・ノア・ハラリ
『「21世紀の資本論」の問題点』苫米地英人
『マルクス資本論』エンゲルス
『負債論』デヴィット・グレー